最近、「ヤングケアラー」という言葉を耳にする機会が増えました。
家族の介護や世話を担う子どもたちの存在が知られるようになり、社会的な支援の必要性も広く語られています。
私自身も、子どもが家族を支えなければ生活が成り立たない状況は望ましいことではないと思っています。
学業や友人関係、将来の選択肢が制限されるような状況であれば、周囲の支援が必要です。
一方で、私はヤングケアラーという言葉を聞くたびに少し考えてしまうことがあります。
それは、「かわいそう」という言葉だけで当事者の人生を語ってしまっていないだろうか、ということです。
人は誰かの役に立つことで喜びを感じます。
家族のために食事を作る。
祖父母の話を聞く。
体調の悪い家族を気遣う。
そうした経験の中で責任感や思いやり、自分の存在価値を感じることもあります。
実際に当事者の中には、
「あの経験が今の自分を作った」
「家族の役に立てたことは誇りだった」
と振り返る人もいます。
もちろん、だからといって負担を放置してよいという話ではありません。
大切なのは、「家族を支える経験」と「子どもだけに責任が押し付けられている状況」を分けて考えることだと思います。
家族の中で役割を持つことと、自分の人生を犠牲にして家族を支えることは別の話です。
また、私たち支援者や大人は、「かわいそう」「大変だったはずだ」と決めつけ過ぎない姿勢も必要ではないでしょうか。
当事者がどのようにその経験を受け止めているのか。
苦しかったのか。
誇りだったのか。
両方だったのか。
その答えは、一人ひとり違うはずです。
ヤングケアラーへの支援は必要です。
しかし同時に、当事者の経験や人生を一色で塗りつぶさず、その人自身の声に耳を傾けることも大切なのではないかと思います。
支援と理解。
その両方があってこそ、本当の意味で当事者に寄り添えるのかもしれません。



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